マラケシュに所縁のある遺跡Aghmatは栄枯盛衰を物語る…

Bab Aghmatの名前刻まれています

Bab Aghmatの名前刻まれています、マラケシュメディナ(旧市街)

グランドタクシー(6人集まると出発する長距離を走る乗り合いタクシー)でマラケシュ通いをしていたころ、いつも到着するのが、マラケシュ旧市街南東に位置するBab Aghmat(発音はバーブオマットですが、オがアラビア語独特の音になります)。

あるとき、大好きな女主人がいるギリーズのアンティーク店でスペイン、アルアンダルス地方が栄光を極めた時代の話しをしていて、その流れで、「あなた、マラケシュから30㎞はなれたところのAghmatには、アラブ人がスペインの大半を治めていた時代に、セヴィリアの王だったMu’tamid Ibn Abbadの墓があるのよ。彼はアンダルスを追われて、ここまで亡命してきたの」と教えてくれました。へえ!あの、アルハンブラ宮殿が輝く、アンダルスから、こういっちゃなんですが、こんな乾燥したパサパサのアフリカ大陸に追い出されてきた王がいたんだ!しかも、Aghmatって名前、わたしがいつもタクシーに乗る、Bab Aghmatの由来となった町では?ということで、夏休みの終盤、マラケシュ地方探索プロジェクトと銘打ち(自分ひとりだけプロジェクト笑)、実際に見に行ってきました。

Aghmatモスク跡、メッカの方向を向いたくぼみがあるミハラブ跡

Aghmatモスク跡、メッカの方向を向いたくぼみがあるミハラブ跡

地図で場所をみるも、だいたいこのあたりかな?というのは分かるのですが、どうやらいつもネクタロム商品を引き取りに行くウーリカ近くの気がするも、一度もAghmatという地名も、案内板も聞いたこと、見たことがなく…。

とにかく、行ってみよう!で車を走らせてみると、自宅からネクタロムの工場を通り過も、ウーリカを通り過ぎても、やはりそれらしきものは見つからない…ということで、もういいや!今回は行かない方が良いということなんだわ、とあきらめマラケシュに向け車を走らせると、な、なんと!右側に、「Aghmatは右→」という立て札が!なんということでしょう‼

ということで、無事にAghmatに到着。

実はこのAghmat遺跡の隣はごみ集積場!Aghmatはどこにいてもアトラスに囲まれている村

実はこのAghmat遺跡の隣はごみ集積場!Aghmatはどこにいてもアトラスに囲まれている村

なんと、海外から考古学者が来て発掘作業されている遺跡なのに、ごみ集積場が隣にあるんですよ…。誇るべき遺跡のとなりが、ごみ…。モロッコの人たちが、遺跡というものをどう捉えているのか、感じることができました…。急成長している昨今のモロッコ、1000年以上も昔のものなんに価値を見出さない風潮があるとしたら残念です。わたしは歴史があるから、今の自分たちがある、と思っています、かの有名なドイツのゲーテもこう言っています。(以下抜粋)

歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、
闇の中にいよ、その日その日を生きるとも。

さて、本題。到着すると、遺跡の入り口の門が閉まっていて例のごとく、きたない字で携帯番号が書いてあったので、電話をかけようとすると、管理人らしきおじいさんが自転車でとうちゃーく。

おじいさんの子脇には、遺跡に我が物顔で住まうネコちゃんの餌(鶏の臓器がはいったビニール袋)が…どこでもネコは愛されるネコ天国、モロッコです。

Aghmat遺跡のハマム(11世紀)、温度毎に3つの棟があります、テルマエです!

Aghmat遺跡のハマム(11世紀)、温度毎に3つの棟があります、テルマエです!

脱線しましたが、こうして晴れて中に入ることができました。予約もせずに家をでて、これはラッキー!

ですが、このおじいさん、モロッコ語(アラビア語モロッコ方言)しか話さないので、いろいろ親切に説明してくれるのですが、あまり理解できず…。で、自分で調べました。

そもそも、このAghmatは、マラケシュを都とした最初の王朝アルモラヴィッド朝が、マラケシュを首都とする前に、拠点をおいた町なのです。

そのころの、Aghmatはキリスト教徒のベルベル人が住んでいたとも言われていますが、サハラから来たAbdallah ibn Yasin(アブドッラーイブンヤシーン)がこの町を制圧、その後、彼は町の最有力者の未亡人ジナブと結婚し、Aghmatの富を一気に手に入れます。

Aghmatのハマム遺跡の内部、かなり復元が進んでいる

Aghmatのハマム遺跡の内部、かなり復元が進んでいる

さて、砂漠の民にとってAghmatの魅力は何だったんでしょうか?

これは、Aghmatの場所に実際に立つとすぐ分かるのですが、水の確保が容易であることです。周りを標高の高いアトラス山に囲まれ、雪解け水が集まる場所、それがAghmat。いまでも、Aghmatへ向かう道沿いには植物の苗木を売る店がずら~っとあります。バラや、珍しい植物が並び、この辺りでは珍しいほどみずみずしい緑に溢れています。

11世紀の当時、Aghmatはハマム、モスク、学校、大規模スークを備えかなり繁栄を極めたそう。今は、アトラス山脈が見渡せるのどかな”ベルベル人の村”という感じですが、11世紀当時は南部で一番の都会でした。

しかし、その後、砂漠の民は、やはり山に挟まれた場所で生活するより、広い平地を求めたとか、人口が一気に増え町自体が手狭になってしまった、など諸説ありますが、1070年に、Abu Bakrがマラケシュに遷都を決め、その後、Aghmat自体は衰退していきます…。そして今は、過去の栄光が嘘のように、特に変哲のない小さなベルベル人の村です。

まさに栄枯盛衰。

栄枯盛衰を感じるAghmatのモスク跡(11世紀)

栄枯盛衰を感じるAghmatのモスク跡(11世紀)

そして冒頭に出てきた、アルアンダルスから亡命してきた王様Mu’tamidの墓に、おじいさんが案内してあげるよ?と言ってくれたのですが、言葉ができた方が数倍楽しめるだろう、ということで、次回、アラビア語→英語の通訳のできる友人を連れてくる約束をして、遺跡だけみてお暇しました…。このおじいさん、最後の最後に「なㇴ?おぬしはモロッコ人でなかったのか?」と言ったのが極めつけ。そりゃ、スカーフぐるぐる巻きにしていましたが、こんな薄っぺらいモロッコ人いないと思いますよ、おじいさん!

蛇足ですが、この辺りのベルベル村の例にもれず、村全体にけっこうな数のユダヤ教徒が住んでいたようで、フランス人探検家Auguste Beaumier(アラビア語を流暢に話し、結局、エッサウィラの領事にまでなる)によると、19世紀当時、Aghmatの人口5500人のうち1000人はユダヤ教の信奉者だったのです。以上、おもしろモロッコ歴史 でした。

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