モロッコ旅行で得た気づき(子供の置かれている環境のちがいについて)

今回(2023年春)、モロッコ旅行のアテンドをしました。ティーンエイジャーのお子様が4人いたのですが、旅行中に子供たちの見せた変化がほんとうにすごかったので、帰国後もあれはいったいなぜだったのか?といろいろ考えておりました。

今回はラマダン期間中の旅行となりましたが、みんなそのせいかとっても親切だった。これは村のお店で店番のふりをしているところ(笑)

今回気がついたのは橋本治と毛利子来タネキさんの共著「子どもが子どもだったころ」の内容と重なりますが、学校(または塾、お稽古事)~家の往復しかしない現代っ子はどこで生き抜きするのか?ということ。

日本のいわゆる都会に住んでいる日本の若い人は学校~家~クラブ活動(もしくは塾)の移動しかないので、オモシロイ大人に遭ったり(オモシロイというのは、学校的な枠に当てはまらない、所謂社会からはみ出した人という意味)社会の実情(社会は不平等であり、学校で学ぶようなみんなが親切で正義が必ず通るものではないという事)を知る機会がほとんどなく、それゆえ、建て前社会の日本の学校生活に馴染めないOR家庭が息苦しく感じたりした場合、地域で息抜きする場所がなく、その為にうまく生き抜きできない子は思いつめて最悪の事態も起こってしまうのでは・・・という事。

断食してるのにこのノリ!

学校・家で息苦しさを感じたときに、昔は、そもそも核家族ではなく、家や近所に親戚(その中にはみ出した感じの人が1人や2人いて)または、近所の変なおじさんやおばさんとのやり取りがあり、ややこしい事もあったかもしれないが、それによって思いつめることを回避できていたのでは?と昭和感どころか、ここは中世なの?と思わせる濃ゆいモロッコ生活を知っている身としては感じていました。

というのも、モロッコでは、前述の通り、職場体験なんかに行かずとも、家を一歩出れば、お肉屋さんが包丁を研ぐ姿、鶏屋さんが鶏を締める姿、仕立て屋さんが服を作っている姿、家具やさんが椅子に鉋をかけている姿、洗車屋が車(絨毯も洗うけど!)を洗う姿、釜焼き屋さんが汗水たらしてパンを焼く姿、ハマム(公衆浴場)で薪をくべる人の姿、はたまた何もせずにぼーっとカフェに座っている人、物乞いをする人など、実にいろいろな人を毎日、目にするのです。

断食中なのに暑いなかパンを焼く、そしてそのパンを見ず知らずの私たちにプレゼントしてくれるパン焼き釜の人たち

そんな中で、子供たちは、学校ではこう習ったけど、実は社会はすべてがそうではないな、とか、すごいお金持ちの人と乞食をする人を目の当たりにして、社会は不平等だけどどうしてそれでも笑顔でいられるのだろうか、とか、どうして足のない人が乞食をしているのか?等子どもでも哲学的にいろいろものを考える環境があるわけです。

果たして日本はどうなのか?京都に行ってフラッと歩いて目にするのは、お店・店・店だけです。これらはお金がないと楽しめないもの(なので子どもにとっては自動的にそんなに楽しめる場所とはならない)場合によっては寺すらお金がないと入れてくれません・・・モロッコの道にあふれている作り手の姿、働く人の姿はありません。。。

お肉も発砲スチロールがきれいに並んだ状態でスーパーに並んでいるだけ。どうやって肉がこのような姿になったのか?見えないです。肉の匂いを嗅いだことがある子供は少ないのでは?モロッコで鶏屋に行くと鶏の匂いがしっかりします(笑)

北部のムーレイ・イドリスの街で食べた食事、ヤギのチーズや野菜がおいしい!

日本のこどもは、理想論で固められた(建前ともいえる)学校という塀の中と自宅という壁のなかでしか生きていない・・・(または塾?)としたら、モロッコ人の子供のように色々な職業を生業とする大人(無職の人ももちろんいますが、そういう人も何らかの形で社会の中で役割を果たしているのを目にすることができる、それがたとえ、道端に座って人に声をかけるだけにしても!)を日常的に目にする場合と比べると、世界感がひどく狭まってしまうのでは、と思います。

学校でうまくやれないと息抜きをする場所が家庭しかない、ましてや家庭が息抜きができる場でない場合は、どうなるのか?まったくもって今の日本の子供の生きる状況はおぼつかない、と日本の若年者層の自殺増加の数字の増加率記事を見ながら、思ってしまいました。

実家の村で地元のこどもと遊ぶ日本の子

さて、冒頭のお客さまのお子様ですが、その中の2人は初海外、普段は学校に通わず(通信制に通う予定だそうで)偏食もあり、保護者はかなり心配されていましたが、なんと、モロッコ旅行期間中、普段はけっして食べない緑黄色野菜やらいろいろなものを食べ、こちらが「え?偏食ってうそでしょ?」と思うほど、傍から見ていても気持ちいぐらいの食べっぷりを発揮してくれたこともありました。

そして、旅行当初、いま思い出しても面白エピソードなのですが(というか自分のこどもはこういうリアクションをしないので、面白いなあと感じたのですが)カサブランカやマラケシュで排水溝の匂い、ごみの匂いなど日本ではあまり嗅がない匂いを感じた時に、

「くっせー!!!!」

「なにこれ、なんの罰ゲーム!?!?臭すぎやろ、こんなん嗅いだことない!」

というオモシロイほどの大きなリアクションをくれるのです。わたしは、その類の匂いには慣れっこになっているのでなんにも揺さぶられないのですが、日本からひょいっと来た子どもたちにはそんなに強烈な体験なのね!と発見。日本にいると嗅覚をそれほど揺さぶられことがないもんね、たしかに!

だいちゅきなマラケシュのMさんと。

モロッコにいると嗅覚、視覚(色彩がどこにいってもビビッド!)聴覚などの所謂五感がフル活動するのを感じます。そしてある人曰く、「モロッコに来ると生きているという感覚を強く感じられる、モロッコに来ないと生きている感じがしなくなる」そうです(彼女はイギリス在住)、そう、それをモロッコ中毒といいます(笑)そして、わたしもきっとそのようになっているでしょう。帰国後10日目にしてすでに今度はいつ行けるのか?と企んでいますから。

それにしても、偏食だった子どもが食べだし、不登校であまり友達遊びが得意でない子がモロッコ人の村の子供たちとサッカーをして一緒にひと時を楽しみ、まったくもって人付き合いに問題がなさそうに見えるのは、なぜなのか?

もちろん、モロッコ人が子ども好きで(ファミリー旅行に実は超オススメなのです)、ホテルにチェックインしても、町を歩いてもまず子供に声をかけてくれるという国民性もあるでしょうが、建前ばかりではない本当の社会、貧しいけれども物質的な豊かさに重きをおかない人々、神の前ではみな平等であり、与えられた人それぞれの性格・能力をそのまま活かし人々が自然に生きている社会のある種の心地よさを感じたからなのでは、と思います。

仕事をする姿を日常で目にする素敵な環境

いつでもそこにたまたま居合わせた人が助けてくれる、親切にしてくれる人がいるモロッコ。日本ではついぞなかなかできないことを身をもって体験し、モロッコで絶対的な安心感・・・を、もしかしたら持ってくれたのかな?と帰国後しばらくたった今、回想しています。

今回、日本の子供の置かれている環境に想いを馳せ、自分としては、せめておもろい大人として、人に楽になってもらえるような生き方をしたいものだ、と思った次第でございます。

旅行の機会を与えてくださったMさま、そして、いろいろなことを気づかせてくれたMさまごご一行のこども達に感謝しております。

(Mさまは京都市伏見区でアンティークビーズを使ったオリジナルアクセサリーの素敵なショールームを展開されています、詳しくはこちらをご覧ください)

【おまけ】ところで、日本人にはなかなかない、モロッコの社会で通じている考え方についてちょっと触れたいと思います。

モロッコの社会が日本に比べて生きやすい人にやさしいのは何故なのか、と考えた時に思い当たるのは、宗教的な話しになってしまいますが、
神様はみなに同じ能力は与えていない、だが運よくたまたま能力を与えられた人は、例えば、頑張って会社起こして、人を雇って社会に貢献したら良いが、
みながそういう能力を与えられている訳ではないから、それぞれがやれることをやっていれば良い。
それで社会が周るように神は作っているのだから、それが神の本望なのだから。。。

という感じに受け止めていると思います。

モロッコでローマ遺跡は外せません!

ヨーロッパのnobbless obligeではないけど、できる人は、そうでない人を助ける社会(または家族内でもできる人ができない他の親族を助ける)における責務がある、という共通認識がモロッコにはあるようです。これが日本にあるともっと人々が自然と他人に対して寛容な社会になるのではないか?あえて車内アナウンスで「席を譲りましょー」なんて言わずにすむ社会になるのにな!と思う今日この頃です。