逆カルチャーショックin Morocco byモロッコ人

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記事とはまったく関係ない写真、マムーニアの送迎車

交換留学生として海外の大学に出発する前に、大学の留学準備講座なんぞを受けました。
まとめると、海外で生活する人や留学生の多くが通る4ステップがあるので、ホームシックにかかっても焦らず、みんなが通る道だから安心してという内容だったのですが、今から思えば私の人生において何度か役に立った有益な情報で、知らずにいたらかなり焦っていただろうなあ、と思います。

欧米の大学などでは一般的に知られている内容らしいのですが、日本人・外国人に関わらず、だいたい次のステップを経て、海外生活に慣れていくそうです。

1.蜜月期 2.葛藤・闘争期 3.理解・適応期 4.融合・受容期

NECTAROME(ネクタローム)ウリカ庭園

NECTAROME(ネクタローム)ウリカ庭園

1.蜜月期…異国の地に着き、なにもかもが珍しく、目新しく、知らないことや物に興味をいだく時期、おそらく数か月~半年。
2.葛藤・闘争期… 言葉が思うように通じない、またはいろいろ勝手が違うので、やりたい事が日本にいたときのようにできず、自分が子供のように思え、情けなく感じたりする。
無性に日本が恋しくなり、日本のすべてが良く思えたり。ホームシックにかかる。また自分の思う通りにならないので、その国が悪いと文句が続き、日本はこうなのに、どうしてここは違うの!?と憤りを覚えることも多い時期。

3.理解・適応期… 気がつくとある日から、これまで憎々しく思えたその国のいろいろなことが、こういう考え方でこうなってるのかなあ?そういうやり方もあるのか、など違った視点で理解できるようになる時期

4.融合・受容期… その国での自分のふるまい方、外国の異なる風習、異なる気質の人々とうまく折り合いをつけてやっていけるようになる時期

モロッコの山奥の学生寮で1年間を過ごした19才の時、明らかに、ホームシックになった時期がありました。ですが、若かったのか、数か月も立たずに理解・適応期に移った気が… それとも過去の記憶は単に忘れ去られただけなのか…分かりません。

はっきり言えるのは、モロッコでの留学経験があるからモロッコでなんとかやっていけると思った私のモロッコ引っ越し計画の当初の思惑は見事に外れ、なんだか逆にそれが悪く作用したのでは?と思うほど、モロッコに引っ越して、蜜月なんかすっ飛ばして、1年、1年半は葛藤・闘争期にいたのでは?と思えるほどなんだかスッキリしない日々を送っていました。

モロッコアシラビーチ夕日

パラダイスビーチの夕暮れ

年をとったこともあるでしょうし、自分の立場が外国人の独り者という立場⇒”現地人の嫁”と変わったことも大きく影響していると思います。
最近やっと、自分は3の理解・適応期をぬけつつあって、4の融合・受容期に向かっているのでは?と感じます。長い長い葛藤・闘争期は終わりを告げつつあります。ハムディッラーですね。

で、そんな私事はおいといて、タイトルの表す外国で暮らしていたモロッコ人が祖国に戻ると待っているのが、”逆カルチャーショック”です。

そんなものあるのか?

なに、自分の国だろ?

文化も言葉も、勝手もわかっているでしょ?
自分の親や兄弟とも近い環境だしハッピーハッピーじゃないの?

とわたしは思っていました。そして、日本からモロッコに戻ってきて自分がすぐに2.の葛藤・闘争期に入ったこともあり、モロッコ人旦那がモロッコは大変だ~大変だ~というのが、正直、あなたはわがままじゃないの?もうちょっとしっかりしてよ、と思っていたものです(正直、そんな自分が今は恥ずかしい…)

しかし、外国で生活していたモロッコ人と話しをすると、異口同音に、モロッコに慣れるのかなり大変だったよ、と言うのです。
10人いれば恐らく9人はそう言うと思います。

アシラパラダイスビーチ

アシラのパラダイスビーチで寝てるとこんな光景が…

私自身も日本に戻って新しく生活を始めようとしたとき、ちょっと戸惑ったものです(店に入ると挨拶してしまう、とか…笑)。でも、1か月もすればすぐ普通にふるまえるようになったので、モロッコ人がモロッコで苦労する度合いとは比ではない気がします。

想像ですが、日本のように「役所作業が滞りなく流れる社会」「マナーとプライバシーが守られている社会」「気遣い社会」「察する社会」「まあまあの平等社会」

➡「コネ社会」「横取り社会(ついでに横入り社会)」「格差社会」「マナーが重視されない社会」「求めないと人権がない社会」に戻ると苦労するのですねえ、モロッコ生まれのモロッコ人も。

では、わたしの知っている範囲で、苦労した人たちのストーリーを手短に。

モロッカンサロン

最近のリアドでよく見かけられるモロッコスタイルだが形はソファタイプの近代的モロッカンソファ

STORY 1… まず旦那は、モロッコに戻ってきてパンの食べすぎか、肉の食べ過ぎか、はたまたミントティーが原因かは不明ですが、よく肥えました。で、幸せ太りかと思いきや、なんだか元気がない時期が1年半ぐらい。

役所に行けば、なぜモロッコは何をするにもこんなに手間がかかるのだ~!今日は、山を越えてこの地域管轄のなんとかまで行かなくは~(で、行くと45時間待ち)。
ある日は、なんでこんなに家の値段が高いのだ~と10年以上前から比べると沸騰している物価に四苦八苦。15年前と比べると円が弱くなったのも影響ありますが、食べ物以外を円換算して考えると今のモロッコの物価はけっして安くはありません。
またある日は、なんでモロッコ人はお金を貸してくれーと言ってくるのだ~!
なんとそれが家庭教師をお願いしている私立学校のベテランの先生だから驚きます。

まあ、そのほか色々ありますが、とりあえず1年半ぐらい、彼は葛藤していたようです。
日本の方が良かった、なんで戻ってきたんだろ?というつぶやきを何度聞いたか…。
(それを言われると、モロッコ引っ越しを独断で決意した私の心が痛むのよ…)

STORY 2… モロッコ南部出身の男性Aさん。モロッコを離れ日本で暮らす事10年。戻ってきて、久しぶりに会うと、開口一言ほんとモロッコ大変だ~と。会社をつくる許可をもらいに役所周っているけど、人によって必要な書類が違ってくる。
何回通ったらいいのか分からん。日本の要領で、丁寧に控えめに役人と話していたららちが明かない、切れそうになる。
で、切れた。
でも何も良くならない。
ほんと、たいっへん。としばらくの間、モロッコたいっへん、たいっへんと言い続けていました。

STORY 3… アメリカ在住歴10年のBさん。マラケシュ旧市街出身だが、戻ってきたらマラケシュの人口は倍近くになっていた!自分が小さい頃は、近所はすべて知った家族が住んでいたのに、いまでは知らない人ばかりに囲まれて生活している。
アメリカから戻ってしばらく仕事がなく、英語でITの勉強をしたために、いかせる現場もない。
で、結局、奥さん発案のプロジェクトの片腕となり、今では忙しく英語圏からの観光客相手に仕事をしている。
彼も、苦労したなあ、としみじみ言っていました。

Story 4…  カサブランカ出身のCさん。日本の大手メーカーの工場で働いていた彼、10年近くの日本生活を経て、帰国。モロッコに戻ってきて鬱みたいになったそうです。やる気が起きないし、日本でのキャリアを生かせる仕事が見つからない。カサブランカはますます肥大し、今となっては日本の地方都市とおなじぐらいの物価、日本で貯めたお金も出ていくばかり。
そんなときに彼が出会ったのがあるモロッコ人女性。精神的な彼女の支えを得て、自分の会社を設立、日本語を生かして仕事をされています。20160605_829992

ふと気が付きましたが、上に書いたすべての人がモロッコでは自営業をしています。そして、どなたも10年前後、外国で暮らして戻ってきています。10年というのがある種の節目なんでしょうねえ。私たちもちょうど日本に10年暮らして、モロッコに戻ってきましたし。

外国でのいろいろな経験(良い苦い経験すべて)は彼らの今の仕事にきっと生かされています。
じゃあ、適応障害のような辛い経験、ホームシック経験はすべて今に繋がっていて、かかった甲斐がある!もし今、葛藤中の方がいらしたら、いつかは、苦しんだ甲斐がある、そう思える日がきっとやってくると思って、今は静かに辛抱の時期なのかもしれません。

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